ロンドンの一件にかこつけてクリス・ベケットを読む

8/6にはじまったロンドン暴動ですが、さっきググったらさすがにもう沈静化しているようです。思えば週明けの8/8に放火などのショッキングな映像が飛び込んできて、それからしばらくはひらすら報道を追っていたものですが、週末にはもう「けいおん!」劇場版の舞台がロンドンだーとかいって現実を忘却していたので、この揮発性脳みそはどうにかならないものかと思わざるを得ません。とはいいながら今回このエントリを書く気になった程度には、今回の暴動は心に何かしらわだかまりを残したようです。

今回の暴動の背景については既にいくつもの分析が出てきています。今後日本もイギリスの後を追うのかとかそういう現実的な予測も興味深いのですが、それより英米のSF小説を嗜むものとしては、これまで何気なく読んできた小説の背景にこういうものを感じさせる影があったのではないかと、そういうことをつい考えてしまいます。

Journey into Space

Journey into Space

一例として、数年前にイギリスの作家トビー・リットが世代間宇宙船を扱った小説 Journey into Space (2009)を出していました。主流文学畑のリットが突然いかにもなSFを書いたということで記憶が残っているのですが、案の定というか、この小説はガーディアン紙のル・グウィンの書評でこてんぱんにされていました。ル・グウィンは世代間宇宙船を扱った自作ノヴェラのドラマ化にあたり、脚本家が自然も動物も見たことのない人間がどんなものかをどれだけいっても理解してくれなかったというエピソードを引きつつ、リットの作品の登場人物が地球に郷愁を抱いて反乱を起こすうんぬんというプロットを批判しています。SF的にはもっともな批判だと今も思いますが、一方で現代イギリスの状況を知ったあとで改めて見返すと、そもそも作者の本意はSF的なテーマの探求ではなく別のところにあったのではないかとか、比喩としての世代間宇宙船とか色々想像せずにはいられません。しかしあまり文化批評みたいな方面によるのも面白くないので、ロンドンというテーマに沿いつつ今回も淡々と作品紹介をしていきたいと思います。

今回取り上げるクリス・ベケットはイギリスのSF作家。1990年代からインターゾーン誌に短編を寄稿しており、近年ではアシモフ誌にも登場しています。書籍化したものとしては2004年の長編 The Holy Machine をはじめ2冊の長編、1冊の短編集。本職はソーシャルワーカーで、現在は一線を退き講師業やこの分野に関するテキストなども執筆しています。上述の分析では今回の暴動の背景にイギリスの社会福祉の現状が挙げられていますが、その福祉の現場で長年働いてきたベケットの作品にはその経験や感じたことが投影されています。

2001年の短編"Marcher"(ドゾワの年間SF傑作選に収録、のちに長編化(2009)された)は表題どおり入国管理官が主人公の話です。舞台は近未来のイギリス。あふれかえる生活保護対象者のため、各地に福祉行政区のようなものが設立されていますが、実質はある種の飼い殺し状態。一方、こうした行政区の若者のあいだで多世界解釈を奉じる奇妙な宗教、そして飲むと別の世界に移動する麻薬がひそかに蔓延しています。行政区のマネージャーにとっては自分の王国にいるはずの人間がいないこと、いないはずの人間がいることは一大事。かくして主人公の入国管理官が呼び出され調査を行います。
最初に読んだとき入国管理官という仕事もあって移民がテーマなのだと勝手に思っていましたが、イギリスの福祉のなんたるかを頭に置いて読むともっと内破する危うさを扱った小説なのかと思えてきました。主人公が服し行政区を訪れた際に感じた「自然の生活に見せかけて、本来の生き方をさせない動物園」という言い回しが大変痛烈に響きます。

The Turing Test

The Turing Test

また2005年の短編"Piccadilly Circus"(短編集 The Turing Test に収録)では、やはり近未来のロンドンが舞台です。この世界では環境に負荷をかけないため、ほぼ全人口が仮想世界に移住しつつ現実のロンドンにVRを重ねて今までと大差ない生活を送っています。そんな中、大金を積んで仮想世界への移住を免れ相変わらず物理世界に住んでいる一部の老人達がいます。老人の一人クラリッサはVRに構わず車を好きに走らせ、半ば廃墟のロンドンでケガをしては助けられるという、仮想世界の住人からも現実世界の住人からも嫌われている存在です。そんな彼女が、ロンドン中心部のピカデリーサーカスに子供のころ見た電飾を探しに行くのですが……。
この話では同じ空間を共有しながら立ち入ることのできない階層と、そこに生じる感情の渦を描いています。仮想世界の住人にとってはクラリッサは単純に迷惑なので排除したいけれど物理的にできない。現実世界の住人にもクラリッサは頭痛の種でしかないけれど、現実世界の問題は彼らの間で解決するしかないのでしぶしぶ助けに行くが、不条理にも仮想人に敵視される。この場合、純粋にシステム的に排除手段を用意しておけよという気もしますが、たまたまなかったことで結局悪感情が循環し続けるという話になっています。

ベケットはSFガジェットを現実の比喩として使うきらいがあるので、SFとしても盛り上がりにはどうしても欠けるのですが、こうした世知辛い世界の中でふと本来であれば嫌なもの、弱いものに気持ちが傾くという瞬間を描くことについては定評があり、そのあたりが書評などでP・K・ディックを引き合いに出される理由かなと思います。