Windup Girl by Paolo Bacigalupi

The Windup Girl
The Windup Girl
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Paolo Bacigalupi
Night Shade Books
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2009年の英米SFは何のかんの言いながらも良作が結構揃っていたと思うのだが、その中でもバチガルピの初の長編 The Windup Girl は抜きん出た存在感を誇っていた。刊行当初からSF関連のサイトでは好意的な書評が次々と寄せられ、年の終わり頃にはタイム誌の2009年のトップ10特集で小説部門に堂々入賞し、「ウィリアム・ギブスンの後継者にふさわしい」「コンピュータ抜きのサイバーパンク」と絶賛された。2010年のネビュラ賞にも既にノミネートされている。

と、ほとんど褒め殺しされている作品でありながら、個人的には当初あまり読む気がしなかった。もともとバチガルピとはあまり相性が良くなく、代表的作品と言われている「カロリーマン」「イエローカードマン」を読んでもうまく小説のキモがつかめず、この作家はこういうのしか書かないようだと思いこんで、そこで一度縁が切れてしまった。ところが2008年の2つの短編、「第六ポンプ」と"Gambler"を特に期待もせず読んだところ、たちまち引き込まれた。特に「第六ポンプ」を読み、八方塞がりの世界で孤軍奮闘する技師に出会ったことで、ようやく自分の中でバチガルピ作品をつかめる気がしてきた。その余勢を駆って長編も読み始めたが、なるほど絶賛されるのも当然と思わせる、近年まれに見る骨太の力作だった。

あらすじ

石油枯渇によって現代文明は大きく変転した。残る化石燃料の使用は厳しく制限され、電子機器や長距離移動手段は過去の遺物となった。代わって登場した発条動力とそれを補完する遺伝子操作技術によってかろうじて文明の水準は保たれていたが、遺伝子操作の副産物である病気や害虫は世界中に蔓延し、穀物や自然を食い荒らした。人々は生き残るため、耐性種を作り出すだけの科学力を持つカロリー企業の傘下に入り、いまや文明のあらゆる側面を支配するカロリー経済の中に組み込まれていった。

カロリー企業の遺伝子探索人アンダースンはタイ王国の市場で奇妙な果物を見つける。現存する遺伝子の大半をカロリー企業が保有する時代にあって、専門家である自分ですら見たことがなく、発疹サビ病の猛威の中でも新鮮さを保つ果物。アンダースンはその背後にタイ王国の隠された種子保存庫、そして耐性種を作り出せる凄腕のカロリーマンの存在を見出す。

その保存庫を開放すべく、アンダースンは表向きある発条工場の経営者としてタイに潜入し、裏では保存庫の存在を知る権力者との接触をはかっていた。そんな折、ある場末のバーでエミコという少女に出会う。エミコは日本製の遺伝子改変人間で、大手の船舶企業ミシモト社の幹部秘書として仕えながら、タイに置き去りにされ捨てられた過去を持っていた。タイでは存在自体が違法であり、バー経営者の実益と興味のために生かされている彼女に、アンダースンは同情とも愛情ともつかない思いを寄せていく。

一方、アンダースンの工場の簿記係を務めるホック・センは工場の金庫に眠る新型発条の設計図を狙っていた。アンダースンにとっては隠れ蓑にすぎない工場だが、前任者が開発したその発条は現行型をはるかに上回る性能を持つちょっとした新発明だった。かつてはマレーシアの豪商でありながら、原理主義の台頭によって家族を殺され無一文でタイに逃れたホック・センは、新型発条をバンコクのスラムの大物・糞王に売り込み、かつての栄光を取り戻そうと画策する。

そうした外国人達の動きを苦々しく思っている者達がいた。環境省の白シャツ隊隊長ジャイデーもその1人だった。近隣のアジア諸国が伝染病や害虫によってカロリー企業の軍門に降り、海面の上昇で沿岸都市が飲み込まれるなか、タイ王国が独立を保ちバンコクを水没から免れさせているのは、ひとえに環境省による積年の努力の成果だった。環境省の理想を信じるジャイデーは徹底的な密輸の取り締まりを行うが、それによって環境省の長官プラチャ将軍と貿易相アッカラートとの政争を刺激してしまう。何者かに家族を人質に取られ辞職を迫られたジャイデーは、副官のカンヤに後を任せて環境省を去る。

感想

本作はバチガルピの先行する短編「カロリーマン」「イエローカードマン」と同じ世界観を共有している*1。前2作を読んだとき、カロリー企業の支配といった設定には現代的で優れたアイデアを感じたものの、物語としてはやや一本調子で、これで長編をやられてもな…という思いがあって当初読むのをためらったのだが、実際に読んでみるとそんな心配は杞憂だった。バチガルピはまったく異なる立場・背景を持った4人の登場人物を中心に据えることで前2作と比べものにならない複雑な物語を展開し、同時にそれらの人物の背景を通じて、世界観もずっと掘り下げている。

主要登場人物はそれぞれカロリー企業のエージェント、遺伝子改変人間、難民、環境捜査官と四者四様で面白いが、個人的には特に4番目の環境捜査官の物語に強い印象を受けた。ジャイデー・ロジャナスクチャイ、元ムエタイのチャンプにして今は環境省の白シャツ隊の隊長、賄賂を受け付けず不正を許さぬ人民の英雄、人呼んで「バンコクの虎」……ってキャラ立ちからしてものすごいのだけど、環境省という組織の中での生き様がほとんど気高いといってもいいほど心を打たれる。かつて伝染病や害虫がアジア各地を蹂躙したさい、破壊活動もいとわない行動力と機動力でタイ王国への侵入を水際で防いだ環境省の白シャツ隊。それが今や海外貿易への要求に押されて日陰者扱い、現場では贈賄と恐喝が横行している。そんな現実を目の当たりにしながら理想と理念を実践し続けるジャイデーは、欲望うずまくこの物語にあって清涼剤とも言える存在だ。そしてまた、便利になればなるほどインフラは見えなくなっていくという「第6ポンプ」にも通じるバチガルピの問題意識、その矛盾を体現する人物でもある。ジャイデーの精神は中盤以降、彼の悩み多き副官カンヤに引き継がれていき、この小説の重要な柱となっている。

インフラの不可視化と先に書いたけれど、それは無論インフラに限らない。この小説の登場人物達も現実のわれわれによく似て、自分たちの見たくも考えたくもないこと、カタストロフの一歩手前にいるという事実を普段は意識せず生活にあくせくしている。ところがそうした世界に裂け目が入り、否応なく荒涼とした現実に対峙させられる瞬間――例えば工場の藻の培養槽のシーン――とをバチガルピは鮮やかに描き出す。このあたり、世界構築の妙と並んでバチガルピ作品に強くSFを感じるポイントだ。

SFと言えば、世界構築における外挿など基本的には本格SF路線の本作も、アジアを舞台にしたSF作品ということでイアン・マクドナルドやジェフ・ライマンの例に漏れず、どこか神話めいた感触がある。実際作中ではたびたび輪廻転生や因果応報といった仏教的世界観が語られ、後半にはマジック・リアリズム的な出来事も起きる。しかしマクドナルドやライマンに比べればずっと控えめで、やはり基調をなしているのは人間とその欲望や共感の物語なのだ。

ところでここまで書いてきてタイトルが The Windup Girl なのにもかかわらずほとんどヒロインのエミコについて言及していないことに気付いた。手落ちなのは分かっているけれど、何しろあまり感じるものがなかったのだった。このエミコ、秘書兼愛玩用なので毛穴が極小になっていて肌が陶器のようになめらかだが、日本ならともかく東南アジアの気候ではすぐにオーバーヒートを起こし、おまけに水に浮かばない。このポンコツぶりがどうにも色々なものを連想させて、服従の遺伝子と自由意志をめぐるエミコの葛藤までどうも見慣れたものに見えてくる。作品の非でもなんでもないのだけど。

それに関連して言うと、そもそもバチガルピの日本観がいささか微妙である。タイに関してはタイ作家の作品を読み込んでタイ人のアイデンティティを探ったとインタビュー等で語るくらいに踏み込んでいるだけに、その落差が激しい。日本企業のタイ支店の場面ではマネージャーが畳の部屋で書道しているとか、いくら何でもステレオタイプ過ぎるだろう。ミシモトという企業名もうさんくさい限りである。少しググってみたところではミシモトというのは上海だかの偽日本語ブランドだったり、アメリカのラジエーターのメーカーだったりするらしい。日本関係ないじゃん…。もしかするとこの偏ったオリエンタリズムサイバーパンクの継承者の証なのか?などと埒もないことまで考えてしまう。

ずいぶんと締まりのないことをグダグダ書き連ねてしまった。この小説のようにソリッドにしたかったのだが。そうそう本書の凄さはこれだけ複雑な物語をわずか300ページ、3部作が当たり前の現在では極めてコンパクトにまとめたその筆力の確かさにもある。これが初の長編なんてほとんど信じられないくらいである*2。とにもかくにもSFの次世代を代表する作家の誕生といっていいだろう。次の作品は5月に刊行が予定されているヤングアダルト小説 Ship Breakerヤングアダルトと言いながらも、船舶解体というテーマからして手加減抜きの予感がする。大人向け長編の構想もあって、本作よりもさらに複雑で野心的なものになるという。しばらくはバチガルピから目が離せなさそうだ。

*1:登場人物の一人であるホック・センは名前も違うし明言されてもいないが、設定から察するに「イエローカードマン」の主人公の老人とほぼ同一人物

*2:商業出版にこぎつけたという意味で。インタビューでは非SFの長編を以前に4本ほど書いているらしい。