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あるSF作家の受難について

Column

正直に言うと、この記事をどう書いたものか迷っている。事件としては既に一区切りついてしまって、特にできること、呼びかけられることはない。また私が政治や法律にてんで疎いこともあり、そういった方面のアプローチもできない。ただ、英語圏SFの紹介を拙いながらも行っている人間として、この一件は書いておかねばならない気がするのである。

カナダにピーター・ワッツというSF作家がいる。本業は海洋学者であり、そのキャリアからくる科学的に裏打ちされた緻密な設定とテクノロジーによって人間のたがが外れたディストピア的世界観、そうした世界での倫理など、複雑で陰鬱なテーマを描く現代有数のハードSFの書き手として高い評価を受けている。代表作である長編 Blindsight はちょうど日本で開催された2007年のSF大会ヒューゴー賞にノミネートされた*1。ファーストコンタクトという古典的テーマと意識や知性の本質といった現代SF最先端のトピックを融合させたこの作品は間違いなく00年代を代表するSFである。


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昨年2009年の12月8日、そのワッツが友人の引越の手伝いでアメリカに行った帰途、ミシガン州ポートヒューロンで国境警備隊に暴行・拘禁を受けた上、架空の容疑で逮捕・起訴された(Locus Onlineの記事)。ワッツ本人のブログ友人のデイヴィッド・ニッケルのブログによれば、事件のあらましはこうである。国境を通過する際、ワッツは警備隊に検査のためといって車を停止させられた。ワッツが車から降りて検査がどういった性質のものか尋ねようとしたところ殴打・拘束され、地元警察が到着したところで連邦職員への職務執行妨害の容疑で逮捕されたという。

最初にこの事件を知ったとき、その不条理さにおぞましさや憤りなど色々感じはしたが、同時に今後の展開については見通しは明るいと思っていた。冤罪であることは明らかだし、やはりワッツの友人であるウェブ界屈指の著名人コリイ・ドクトロウこの事件について広く呼びかけていたからだ。当面の問題は裁判にかかる莫大な費用だが、これについても先述のニッケルがワッツのサイトで募金を呼びかけたり、書店を通じて寄付を募ったりといったキャンペーンを早々と展開していた。私も本当にわずかだが寄付させてもらった。後は裁判の結果を待つだけだった。

そして先日、3月19日に判決が出た。実刑判決、最大で2年の懲役。思わず目を疑った。警備隊員の証言の不一致を検察側が認めたにもかかわらず、「法的な命令に従わなかったこと」、すなわちワッツが地面に伏せるように命令されたとき即座に従わなかったことが執行妨害に該当する、と陪審団が判断したのである。判決後、ワッツ自身も弁護士はもとより、検察、裁判官、陪審、当の警備隊にさえ悪感情は持ってないと言いながら、法の拡大解釈について鋭く指摘している。ブログを読む限り、ワッツに上告の意志はなさそうだ。

この判決について、コリイ・ドクトロウ権威主義的な法の運用を批判する記事を、チャールズ・ストロス人間の国境間移動とグローバル資本主義の関係を論じた記事をそれぞれ書いている。が、今の私が考えているのはただただ1人の人間、そして作家としてのワッツの今後である。最大2年の懲役と今後生涯にわたるアメリカ入国禁止が彼の人生にどういう影響を及ぼすのか、そしてそれによって書かれなくなる作品の事を思うと胸が痛くなる。こんな紋切型の同情のほかにできることといえば、例によってわずかながら寄付を送ることくらいである。万が一このブログの読者にワッツ、あるいは彼の飼い猫に寄付してもいいという人がいれば、ここからどうぞ。猫の写真の横のPayPalのリンクからVisaやマスターカードで寄付することができる。

判決を淡々と述べたワッツのブログ記事を読んでいたら、コメント欄でアメリカ人の読者や作家達がこんな法律を持った国で申し訳ない、と謝っているのが印象に残った。

*1:その他、同年のローカス賞・キャンベル記念賞・オーロラ賞にもノミネートされ、すべて受賞を逃している。