読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ソーシャルメディアとSF

Column Daniel Abaraham Walter Jon Williams

TwitterやらFacebookやら、ソーシャルメディアが今すごいですね。と平気で何日もつぶやかないままでいる人間がいっても何の説得力もないわけですが、これだけ世界に普及するに至った戦略や思想、それを支える技術もさることながら、やはり1000万とか1億とかいう単位で人間が能動的に情報を発信したり、また違った新たな使い方を模索しているという状況がいま現に存在しているということが改めて考えてみるとものすごいことだなと思います。

こういう状況を前にしてSFはどうするべきか、というようなことは作家が各人考えたり考えなかったりすればいいと思いますが、私がむしろ気になるのは直接的な影響関係よりも、こうした状況がSFから今まで気付かなかった想像力を引き出す、あるいは現在の感覚を通じてSFを読むというようなことです。

そんなことを考えたのもダニエル・エイブラハムの短編 "Exclusion" を読んでいたからです。Asimov誌の2001年2月号に掲載されたこの作品は、主人公が付き合っていた女性と仲違いをしたことで、彼女から「排除」されてしまうという物語です。この未来世界では人々は知覚を自由に編集でき、それをユビキタスなシステムを通じて他人にも適用させることができます。誰か気に入らない人間を「排除」すると、自分は相手の存在が、相手からは自分の存在が知覚できなくなります。もちろん電子的な手段でも通信できないわけで、実際上お互いに存在しないも同然の状態となるわけです。そんな状態になってもまだ未練たらたらの主人公は弟を通じて彼女と仲直りを図るも、弟を通じて帰ってきた回答は「『排除』を解いてほしかったら、今まで自分が『排除』してきた人間を全員解除して和解しろ」というものでした。悩みつつも主人公はこれまでの人生で「排除」してきた人間一人一人解除していきます……。

Leviathan Wept and Other Stories

Leviathan Wept and Other Stories

最初にこの設定を聞いたときはいかにもSF的なすごいあり得ないテクノロジー――あえて例えるならドラえもんの「どくさいスイッチ」のような――を思い浮かべたわけですが、現在の視点を通してみるとこれは他でもないTwitterFacebookのブロックの感覚ではないかと思うわけです。もちろん作中のような世界にはブレイクスルーを何十回と繰り返さないとたどり着けないでしょうけれど、「現実を右クリック」ではないですがわれわれの普段の生活の中での具体的な感覚とSFの中のガジェットが結びついたというのは、結構エポックメイキングな出来事なのではないかと思います。これにAR技術が加わって……技術が社会全体に敷衍して……とかなんとか意外と具体的なロードマップすら見えてきそうな気がします(するだけですが)。10年前に書かれたSFが、ソーシャルメディアを知った目を通じて意外と見慣れた形でよみがえるという一例でした。
一方、逆にSFを通じてソーシャルメディアの中に昔から変わらないものを見出すということもあります。ウォルター・ジョン・ウィリアムズ "Pinocchio" は2008年に出版されたヤングアダルトSFアンソロジー The Starry Rift に収録された中編ですが、この作中にフラッシュキャストという、今で言いますとYouTubeUStreamの合いの子のようなものが出てきます。

The Starry Rift

The Starry Rift

舞台は様々な問題がテクノロジーで解決されたいわゆるポスト欠乏社会の未来で、人間は不老になったけれど代わりに子供の数は少なくなり、生まれたときから物質的な欲求は満たされているけれど同世代は少ないし、親にいつまでも頭が上がらないし、やることといったら消費ぐらいで精神的にお寒い状態です。

そこで若者達は冒頭のフラッシュキャストで自分たちの生活をダダ漏れして、友達やら注目やらを集めようと必死になるわけですが、主人公サンスンはたまたまひときわ飛び抜けたスターになってしまいます。主人公のほうもつい調子にのって広告塔代わりにメーカーから金をもらうような真似も。しかしそんな左うちわの時期も主人公の元カノのキミーが主人公のプライベートをばらしつつ、自分がスターに取って代わろうと動き出した時から崩壊し始めます。

フラッシュキャストについてはまさしく今の動画系のウェブサービスの延長線上にあるものとして描かれており、そこで繰り広げられる悲喜劇もネットの現在を反映している感がありますが、面白いことに著者の言によればこの作品の着想は子役として一世を風靡したTV俳優のその後を取材したドキュメンタリー番組だったそうです。子役だった頃の栄光が忘れられず腕を切り落としてまでメディアの注目を浴びようとした元子役たちの姿に、著者は現在と過去のメディアに通底する人間の飽くなき承認欲求を見出したのでしょう……とまとめると月並みに過ぎますが、SF的未来と日々更新されるテクノロジーという一種浮ついた世界の中で、素朴であれ人間の姿を描くというのもまたSFでしょう。

ところでこの小説では人間の体の代わりに類人猿の体に入るのが流行っており、特に主人公とその仲間はゴリラの体を好んで使っていて、「ゴリラボール」という新スポーツまで開発してしまうのです。そのため本作は話の3分の2くらいはゴリラが大活躍という今まで私が読んだ中ではベスト級のゴリラSFになっています。世のゴリラSF好きにはまたとないsatisfactionな一篇ではないでしょうか(ゴリラだけに)。