Zendegi by Greg Egan

Zendegi

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要約

2012年、国会選挙を目前に控えたイランではある保守派の議員候補のスキャンダルに端を発する大規模なデモが行われ、次第に国全体を巻き込む一大政変へと発展した。テヘラン勤務のジャーナリスト、マーティンは一連の騒動の発端の場に偶然居あわせたことから一部始終を報道することになる。
同じ頃、幼少時に亡命して米国に在住しているイラン人科学者のナシムはヒト・コネクトーム計画に参加していた。鳥類の脳の構造データから脳機能を限定的にシミュレートできる段階まで研究は進むが、資金不足で計画は停滞。自分の新たな道を模索すべく、ナシムは新政権が発足したばかりの故国へ戻ることを決意する。
そして15年後、ナシムは中東を拠点とする大手オンラインVRゲーム会社・ゼンデギの現場責任者として働いていた。サイバージャハーンをはじめとする同業他社との熾烈な顧客獲得競争に頭を悩ませていたさなか、ナシムは古巣であるヒト・コネクトーム計画が完成したことを知る。そしてその公開データからかつての自分の研究成果を用いて人間の経験や反応を抽出したAIを作り出し、ゼンデギの強みにしようと画策する。
一方、マーティンはイラン人女性と結婚して家庭を築いていた。しかしある不幸な事故で妻は死亡し、それがきっかけで彼もまた癌に侵されていたことが判明する。一人息子のジャヴィードが心残りの彼は妻の葬式で知り合ったナシムの研究を知り、ある依頼を行う。それは自分の思考と反応を持ったAIを作ってほしいというものだった。
2010年に出版された本書は Teranesia(1999) 以来久しぶりの近未来を舞台にした長編である。脳のシミュレーションというイーガンの読者にはおなじみの題材を扱いながら、シミュレーションの意識の有無といった哲学的な問題には深く踏み込まず、死に向き合った一人の人間がこの世のよすがとして何を残せるか、テクノロジーはそれにどう応えられるかをそれぞれを代表する二人の主人公の視点から交互に描いている。既存の長編のようなSFとしての画期的なアイデアや衝撃はないが、感傷や科学万能主義に流れることなく人間とテクノロジーの関係と限界を実直に追求した作品だ。出版の前年のイラン大統領選やクラウドを基盤にしたオンラインゲームなどごく最近のトピックが散見されるところも興味深い。

感想

イーガンの現時点(2011年5月)での最新長編だが、今年また新作が出るのでそれも時間の問題である。もっとも遠未来を舞台にしたイーガン長編(Schild's Ladder(2002)、Incandescence(2008)、今度出るOrthogonal(2011))を読み通す気力はとてもとても持ち合わせないので、これしかイーガンを読んだことがないのは秘密だ。
大枠は上記概要の通り、地味というか文学的なアプローチの作品である。読みながら途中から念頭にあったのは長谷敏司あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)で、あそこまで生々しくないけれど骨身を削るような鬱々とした雰囲気が共通しており、後半マーティンの死が近づくにつれてダウナーな気分にさせられた。オンラインVRゲームを扱っているもののゲームは親子二人の交流の場としてのみ登場し、ゲーム自体をめぐるような展開はないのでゲーム小説とも言い難い。技術的なディティールとかはさすがイーガンと思わされつつも、イーガン作品に期待しているサムシング――驚天動地のSFネタとか――はなくいささか残念だったが、それはそれとしていくつか気になる点があった。
一つは主人公の一人マーティンが自分と同じ思考のAIを作る動機で、これが何かというと「自分の倫理観・道徳観を息子に伝えたい」というもの。彼にはイラン人の友人夫妻がいて、自分の死後も息子の面倒をみてくれるくらいに気のいい人々なのだけど、でもやはりアフガニスタン人に偏見があったり女性蔑視の傾向がある。それが息子に伝わるのは耐え難いという。イーガンの登場人物らしく合理的思考のマーティンがこの一点は最後まで譲らず頑固に貫き通す。このオブセッションは見覚えが……と思ったら、「ひとりっ子」の親父さんがちょうどこんな感じじゃなかったろうか。親であるがゆえの合理的判断を越えた思考を書こうということか。ふとイーガンって子持ちなのかもしれないと思ったが、著者と作品を安易に結びつけても詮ないことではある(イーガンのような覆面作家には特に)。
もう一つは脳のシミュレーションをめぐる問題。本作ではいわゆるアップロードとは別にサイドローディング(side-loading)という技術が登場する。アップロードが完全に力押し、とりあえず脳を切り刻んで構造と反応を全部シミュレートすればサイバースペースで復活して意識も生まれるんじゃね?という発想だったのに対し、サイドローディングはより機能主義的というか脳をモジュール化して捉えることで、特定の機能のみを抽出して基本モデルに反映させるというもの。アップロードは単なるソフトウェアであると同時に人間であり、したがってアイデンティティも人権も問題になってくるというのがイーガン作品の基調にあったのだけど、本作ではマーティンの分身として反応は返すけれど自意識もなく葛藤もない存在が登場する。開発者のナシムはこれによって反アップロード論者のいう意識のあるものを奴隷化するうんぬんという立場は否定されると考えるのだけど、最終的にはこの存在を完全な人間ではないとして退けてしまう。このあたりの一進一退感がSFとしては非常にもどかしいところだ。
どうにも歯にもののはさまった感想になってしまうけれど、ただやはりSF的思考の密度は高い作品であり、その意味では2010年に出た作品の中では一番SFらしいSFといえる。だからどうというわけでもないのだが……。