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Raising Stony Mayhall by Daryl Gregory

Raising Stony Mayhall

Raising Stony Mayhall

要約

1968年、全米で突如ゾンビが大量発生し、何万人もの犠牲者が出る大惨事となった。生き残った人々はゾンビを恐れ憎み、各地で狩りを行っていた。そんな最中、アイオワ州の片田舎イースタリーに住むワンダ・メイホールと3人の娘は道端で凍死した若い女性とゾンビの赤ん坊を見つける。ワンダは赤ん坊の正体を知りながら、ジョンという名前を付けてその子を育てることを決意する。
ジョンは普通のゾンビとは違っていた。言葉を話し、成長さえした。ストーニイというあだ名の付いたジョンは姉妹や隣家の男の子クワンと遊んで暮らしていたが、やがて自分の出自を知り思い悩むようになる。周囲の人間が進学や就職で離れていくなか、鬱屈していたストーニイはお忍びで出かけた先で事故を起こし姉の1人を死なせたうえ自分の存在を当局に知られてしまう。そこへ現れた彼と同じく言葉を話すゾンビたちに連れられ、ストーニイは故郷に別れを告げる。
ストーニイをスカウトしたLDA――リビングデッド・アーミーはゾンビの生存を支援する地下組織だった。ストーニイも人間の協力者の家に隠れ住みながら、仲間が引き起こしたトラブルをもみ消すべく活動していた。だが年々仲間が減少していく現状に危機感を覚えたLDA内部では人類への総攻撃をもくろむ強硬派と穏健派のあいだに緊張が走っていた。赤ん坊から成長したという噂のため特別な存在と目されていたストーニイは、仲間のMr.ブラントやデリアとともに全米のゾンビが集結する<議会>へ向かう。反攻か共存か、ゾンビの未来を決める場へ。
ダリル・グレゴリイの最新作は意識を持ったゾンビの物語、著者いうところの「アンチ・ゾンビ」小説だ。ゾンビ襲来による世界の破滅という王道パターンを踏襲しながら、小説の焦点となるのは生者と死者のはざまに立った一人のゾンビの青年が、共感と断絶の渦にもまれながらやがて双方の救世主を目指そうとする成長譚(これまた著者の弁を借りれば「ゾンビルドゥングス・ロマン」)である。グレゴリイの読者にはおなじみのモチーフ、家族と郷愁、ポップ・カルチャーとパルプ小説などもふんだんに盛り込まれているが、第一長編のもがきのたうつような青春小説の感覚とも、第二長編の濃密な群像劇とも違う、端整な文章とストーリーテリングはジョナサン・レセムマイケル・シェイボンといった作家にジャンル小説畑から肉薄しているようにさえ思え、作家の確かな成長を感じさせる。

感想

読後、もやもやする。語り口にせよ描くものにせよ、いかにもグレゴリイの小説と思わせるものに溢れているのだけど、正直あまり面白くないという……これは参った。とはいえ前作でもそんなような違和感を書いていたのを思い出し、今回はもう少し冷静に見ていきたいと思う。

著者はブログ「SF Signal」のコラムで、本書をというか自作長編全部を「アンチ・ホラー」という用語で説明している。いわく、通常のホラーは不可解なもの、おぞましいものとの接触を描く。これらは今まで日常と思っていたものの下にうごめく世界の真の姿であり、絶対的な悪である。悪は退くかもしれないが、真実を覗いたものは代償を失う。人間と世界には絶対的な断絶がある。対してアンチ・ホラーでは世界の真実はそれまで主人公が生きてきた世界との「違い」として描かれる。決定的な違いではあるけれど、完全に隔絶したものではない。そして主人公が最後にその「違い」を受け入れることによって、世界は新たな方向に開かれる。その意味ではSFでいうセンス・オブ・ワンダーに近い構造になっていて、グレゴリイが自作を「SFっぽいファンタジイ」と呼んだりするのはそのためだろう。
そうした「違い」、1作目の「デーモンの憑依現象」、2作目の「ミュータントの突然発生」にあたるものが本書の「意識のあるゾンビ」だろう。ここは結構巧妙になっていて、意志のない怪物的なゾンビを描いてきた既存のゾンビ作品のアンチテーゼになっていると同時に「そもそも死体がどうして立って動き出すのか」という根本的な疑問を「意識がある」というところを糸口に主人公が解明していくという物語の駆動力にもなっている。グレゴリイが極めてコンセプト重視の作家ということがよく分かる。

さてそうするとグレゴリイは1作目から小説の軸についてはブレていない。そこで違いがあるとすればより細部の問題だろう。私はグレゴリイの長編の中で第1作のPandemoniumが大好きなのだけど、それは有り体にいえばすごく稚気じみた小説だからだ。デーモンのデザインのアメコミっぷりだとか、頭のおかしい秘密組織だとか、ユング心理学だとか、なぜか作中に登場するP・K・ディックだとか。描写のレベルではリアリズムを重視していても内容は作者の趣味が露骨に反映された極めてはっちゃけたものになっている。これが2作目になるとかなり控えめになり、とはいいながら南部ゴシック小説を基調としているのである種過剰な感じは出ている。ところが本書となると……ゾンビといいながら、これを地下活動家に置き換えてもそんなに違和感ないってレベルである。そりゃゾンビなので顔がこそげて骨が出てるとか、そういうくすぐりは無数にあるのだけど、物語のトーンを変えるには至らない。概要でポップ・カルチャー寄りの主流文学の作家を挙げたのはそういうことで、実際本書が彼らの作品と遜色あるとは思わないのだけど、個人的にリアリズム的な洗練はチャームポイントではないのである。

もちろん私が読めていないこともいっぱいあると思う。例えばたびたびストーニイが「アイオワ生れのゾンビ」と呼ばれる時、そのアイオワ生れっていうニュアンスが体感として分からなかったり。あるいはストーニイはゾンビの救世主とコミュニティ内であがめられるのだけど、内容を追うかぎりストーニイが特に救世主的な行いをしたようには取れなくてその尊崇の理由が分からなかったり。この辺はアメリカやキリスト教に対する理解が不足しているのだろうと思わずにはいられない。

まあ、面白いにしろつまらないにしろ、グレゴリイというのは追わずにはおれない作家の一人だ。秋口には初の短編集の刊行も予定されていることだし、今年はまだまだおつきあいさせてもらうとしよう。

ところでAmazon.comの本書のカスタマーレビューに「マイケル・ビショップ」氏が「アンデッド文学の戦争と平和」というとてつもない題でレビューを書いているのだけど、これはやはりかのSF作家のひとなんだろうか。ラグランジュ大学で講座を受け持ってるとか書いているので、どうもそれらしい。だったらAmazonとかじゃなくてブラーブに書いてよ先生!